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2021.05.30

【現場読解】

シンガポールや日本を拠点にグローバルな舞台で活躍するリーダーたちが、人生やビジネスについての信念や情熱を語る!世界の未来を担う人たちにヒントをあたえてくれる「オススメの一冊」も紹介。

《第18回》

 多様な表現スタイルを自在に駆使し、次から次と人を巻き込み魅惑的な音楽パフォーマンスを実現する「百花繚乱のアーティスト」、それが綾さんだ。しかしそのエネルギーは決して無尽蔵ではなく、妥協を許さない芸術家であり続ける苦しみは壮絶だった。冷熱入り混じる思いを明かしてくれた。

関根 綾さん
在星歴約30年
1971年大阪府箕面市出身
尊敬するリーダー/マイルス・デイヴィス
モットー/自分を大切にするということは、自分の心の声を聞いてあげること。そのための時間や労力を惜しまないこと。

Web:Ayasekine.net
Instagram:Instagram:ayaschool
Instagram:aya_loves_drawing


バークリー音楽院のサマープログラムで、人生が一変

 父の赴任で、4歳と10 歳の二度に渡り家族でシンガポールに移住しました。二度目の滞在中、父が独立し塗装関係のコンサル会社やスリランカのブラックタイガーの養殖工場を経営を経て、「カレーとコーヒーをお供に、大好きな読書に耽りたい」という思いから、母と古本屋カフェ「ボングウ」をオープンしました。実は祖父も日本でブティック兼カフェを経営していたんです。お店は UE スクエアからロバートソン・キーに移り、14年続いた後 2012年に閉店しましたが、当時のマネージャーとシェフが店のレシピを引き継いでキリニー・ロードのマルタマダイニングに移ったので、あそこに行くとうちの家庭の味が食べられるんですよ。
 小さい頃からピアノを習い、とにかく耳が良かったんです。兄の影響であらゆるジャンルの音楽を聴き、小学5年生からシンガポール・アメリカンスクール (高校) を卒業するまでずっと吹奏楽部のパーカッション担当で、バンドをいくつか掛け持ちし、音楽の世界にのめり込んで行きました。ファーイーストプラザの屋上にあったウッドストックという店でライブもしました。
 ある夏休み、アメリカ人のバンド仲間の里帰りに同行することになり、せっかくの機会だから、と母が見つけてきてくれたボストンのバークリー音楽院の5週間サマープログラムに参加したんです。「なにこの人たち。すごい世界」と大衝撃を受け、その後の私の人生が一変しました。出会った人々があまりに魅力的で、「ここに帰ってきたい!」という思いが強烈に湧き上がり、高校卒業後に正規入学しました。

高校時代、最優秀音楽賞を受賞した際に最愛の両親とともに

NYでアーティスト活動が炸裂するも、鬱を発症

 1994年に卒業後、身一つで仲間たちとNYに移りました。下宿先のブルックリンのブラウンストーンの大家がたまたまバンドマンで、地下をスタジオに改造していました。「ドラマーがいないんだけどどう ?」という誘いに、洗濯バケツをドラム代わりに叩いたりしていましたが、そのうち面倒になりキーボードに変更。ニューヨークにちょうど越してきたバークリー時代の友人を代わりにドラマーにし、大家とその友人と4人で “OYABANDO” を組んで、日本ツアーもするなど精力的に活動しました。たまたま取材でNYを訪れていた漫画家のうえやまとちさん(人気漫画「クッキングパパ」の作者)が寄った、今は亡き伝説のライブハウス「CBGB ‘s」で私たちのライブを偶然ご覧になり、62巻のニューヨーク編の一章に私たちが登場してるんですよ。
 NYでは活動の幅がとてつもなく広かったです。私はジャズの人間でやりたいことは即興性のあるジャズですが、アウトプットはちょっと実験的なバンドのスタイルなんです。ジャズピアニストなんだけどジャズじゃない感じもする、どこにも属さないスタイルがユニーク、と言われたりしました。フラストレーションを含むいろんな感情が入り混じっている人間なので、パンクやブラジル音楽などありとあらゆるジャンルに本気で取り組み表現していました。でも、音楽活動では全然稼げませんでした。結婚してグリーンカードを持っていたので、日系の会社で派遣社員として働き食いつないでいましたが、アメリカ同時多発テロ事件の翌年辺りに燃え尽きて鬱を病み、生活に支障が出始めるほどでした。音楽が仕事にならないコンプレックスも大きく、バイト先で正社員のいじめに遭ったことも要因だったと思います。そんな時、シンガポールにJazz@Southbridgeという新しいジャズクラブを作るので、ハウスピアニストになってほしいと誘われ、NYを一旦離れることにしました。ミュージシャンであった夫も私も落ち着く気配はまったくなく、結婚生活はもう成立していなかったので、離婚してシンガポールに戻りました。

シンガポールの音楽シーンを変えるため、あらゆる手を尽くす

 帰国後、鬱が悪化し、食事もままならなかったり演奏後に母に迎えに来てもらうこともありました。腱鞘炎にもなり思うように弾けずに、またばーんと落ち込んだり、2006年まであまり調子はよくなかったです。仕事はすごくたくさんあり、私のパフォーマンスはインパクトがあって結構目立っていました。ビバップ、パンクロック、ジャズ、フリースタイルとなんでもありで、見ている人はびっくりしていたようです。それまで自分では普通だと思っていたことが、普通じゃなかったんです。でも、みんなの反応は薄くやってもやっても暖簾に腕押しのような感覚でした。音楽仲間に声をかけてもクリエイティブな盛り上がりが感じられず、私が一方的に放出してばかりで何も吸収できなかったんです。猛烈にNYに帰りたいと思いましたが、病気のせいで身動きがとれませんでした。
 もがきながらも、2006年から10年間、それまでライブ演奏をやっていなかったブルージャズカフェのアートディレクターとして、プログラム編成を担当しました。お決まりのハウスバンドのコンセプトを覆して、いろんなミュージシャンを組み合わせて演奏させるなど、徹底的に理想を追求しました。狭いシンガポールを広く感じるようなことをしたかったんです。
 また、シンガポールに私が望むような音楽シーンがないのは政策のせいだと考え、そのことについて研究し証明しようと、奨学金でラサール芸術大学のアーツマネジメントの修士コースに進み論文を書きました。

悲願の非営利団体を襲った不運

 卒業後、誰でも参加できる活動形態を目指し、有志とともにWe Love Jazz SGという非営利団体を立ち上げました。シンガポールにはジャズの歴史があるのに、誰もが気軽に演奏できる場がなかったんです。若手中心のイベントばかりで、彼らを指南する荷を背負う私の年代の人たちが、どんどん演奏の機会を失っていました。小規模でも自分たちでイベントを作る良さをわかって欲しいという気持ちもありました。2019年、ユネスコが定めた国際ジャズデーのイベントがメルボルンで開催され、団体の代表としてパネルディスカッションに招待されました。シンガポールでは団体の功績があまり認知されていないのに、世界の舞台で認められた名誉ある一件でした。
 毎年フェスを行いサポーターも増えていたのですが、ゴールデンマイルタワーで開催した2017年、ビルの塗装が剥がれてボランティアが怪我をするという事故が起きました。2年後、ビルの安全管理を怠ったマネジメント会社を始め、私たちまでが責任を問われ、裁判沙汰になりました。若手スタッフたちは、団体の活動を受け継いでいきたいと言ってくれていましたが、弁護士費用などで資金が底をつき、残念ながら間もなく廃業手続きすることになりました。この事故の他にも非営利の経営に関して様々な問題を経験したので、未然にリスクを回避するにはどうすべきだったのかなど、今後の活動に役立ててもらえるようプレゼンの機会を設けようと思っています。

メルボルンで開催された国際ジャズデー特別イベントスタッフ/キャストの祝賀会にてハービー・ハンコック氏と

シンガポールではもう成長できないと気づいた今

 現在は、2008年から教鞭をとっているラサール芸術大学ほか、積極的に個人指導を行っています。グレード試験は度外視して楽しく音楽を学びたいという子供から、ジャズは好きだけどよくわからないから教えて欲しいという大人まで、コロナ禍で時間のできた人が多かったのか、去年からさらに生徒が増えました。また、表現の機会が減ったりや様々なストレスで人との会話が一切できなくなった時に始めた絵も、精力的に描いています。去年9月、絵と即興音楽とスポークンワードを掛け合わせたプロジェクトを、サブステーションで観客数限定で行いました。体調は随分回復しましたが、定期的にオンラインでセラピーにかかっています。コロナの影響もあり、自分でも気づかないストレスがあるので、調律する気分でケアするようにしています。
 今私は、現在シンガポールでできることはすべてやりきったと感じており、これから芸術家としてさらに成長するための次のステップについて色々と考えています。アーティストとして健康であるために私に必要な最小限のものが、ここにはないんです。それは、気軽にカフェで演奏したり人の演奏を聴いたりと、小さなことなんですが、何年たってもこの国は変わっていません。シンガポールの悪口を言っているわけではなく、芸術家としてここで20年活動し国の政策の方向性をはじめ、様々なことに気づきました。一度離れるという選択もありだと感じています、私にとっての成功は知名度や金銭ではありません。感性に刺激をくれるような面白いものや人が集まるところで気分よく暮らし、芸術に幸せにかかわっていけるような場所に身を置きたいと熱望しています。

2020 年 7 月、サーキットブレイカー解除後4カ月ぶりに人と 高校時代、最優秀音楽賞を受賞した際に最愛の両親とともに共に演奏(エスプラネードで Aaron James Lee と)

オススメの一冊

 この本で作者が勧めているのが、毎朝心に浮かんだことを手書きで3ページ書くモーニングページというツールなんです。2009年頃から続けているので、朝じゃなくてもそういうメンタリティを持てるようになりました。誰にも見せない前提だと、自分で自分をコントロールしなくなるし、どんなことでも書けます。ありのままの自分を受け入れることによって、自分が思っていることや渇望していること、嫌な気持ちなど、全部受け入れることができるんです。
自分のことを考えてあげることの大切さと難しさを改めて知ることができました。

『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』 (ジュリア・キャメロン・著、サンマーク出版))
(取材・文 小林亮子)