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2017.04.25

野球を通して世の中で活躍できる人間形成を目指してきた

元読売巨人軍監督の原辰徳氏が、香港に続いて2回目の海外講演「東海大学と私の野球半生」を行った。講演会では「日本のメディアもいないし、包み隠さず何でもお応えします(笑)」と会場を和ませながら、辰徳氏にとっての野球、そして父である貢氏との絆について語った。

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厳しかった父の下で野球人生の基盤を築いた高校時代

辰徳氏が中学3年生の時、東海大学付属相模高校野球部監督を務めていた父には「相模高校に入るからには五分五分、六四の力なら補欠。七三の力なら選手として考える」と厳しい条件を突きつけられた。それでも気持ちは揺らがずに入学を決意。しかし、父から求められたものは、想像以上に厳しかったという。親子でありながら監督と選手、そして先生と生徒の関係でもある父への複雑な感情ををにじませた。「鬼監督だった」という父に、高校2年生のある日、たった1度だけ反抗したことがあるという。どうしても納得がいかなかった辰徳氏は、父の問いかけに返事もせず、翌日の練習も絶対に行かないと決めた。しかし、翌朝、気がつくとグラウンドに立っている自分がいた。父にはかなわない、と痛感したという。子どもながらに葛藤する気持ちと、厳しいながらもどこかで尊敬する父への思いが感じられた。高校、大学の学生生活は、後に続く辰徳氏の野球人生へと繋がる貴重な7年間であった。

プレッシャーはチャンスと思って楽しむ

22歳で読売巨人軍に入団し、中畑、篠塚両選手と黄金の内野陣時代がくる。プロとは弱肉強食の社会であり、這い上がる力が何より大事だ。そして、プレッシャーは決してマイナスの意味ではなく、気持ちを高揚させ力を出すチャンスでもあり、腕試しの場である。「プレッシャーを楽しむくらいの気持ちがあった」と現役時代を振り返る。

もともと「野球がうまい=プロ野球選手になることが全て」という考えは毛頭なく、野球を通して人間形成をし、世の中で活躍できるような人間になることを目指してきた。長嶋茂雄元監督の下で巨人軍のコーチだった時は、中間管理職の役割、組織論を学んだそうだ。監督と選手の間に立ち、どのように信頼関係を保つか。たとえ、自分と監督との意見が合わなくても、選手には監督の案を通さなければならないのだ。

その後、自身も監督の立場となり、「監督とは決断をするのが仕事であり、覚悟を決めることだ」と改めて感じたという。それは、WBCの監督時も同じだ。2009年のシリーズで日本を世界一に導く見事な采配を振るった。

シンガポールの子どもたちにメッセージ

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7つの小学生ソフトボールチームがあり、野球好きの子どもも多いシンガポール。辰徳氏にホームランを打つためのアドバイスをたずねると、「まず自分がソフトボール(野球)を大好きにならないとダメだよね」と切り出す。努力という言葉の裏には、苦しいだとか大変という気持ちがある。もし大好きならば、そういう気持ちを越え、努力を努力とも感じず、さらっと楽しくできようになる。努力しなきゃ、練習しなきゃという気持ちが先にくると楽しめない。「苦しいことを苦しいと感じなくなるくらい、ソフトボールを好きになって欲しい。近道はなかなかないけどね」。