2016.07.28
日本とシンガポールの国交樹立50周年「SJ50」を記念し、1960年代から現在に至る両国の歴史、そして未来について、当地でのビジネスやシンガポールとの交流に深くかかわってきた『先達』の3人に語ってもらった。
まずは皆さんがシガポールに初めて来られた際の思い出をお聞かせください。
杉野一夫さん(以下敬称略): 私がシンガポールに来たのは1972年、当時あった南洋大学で中国語を勉強するのが目的でした。日本と中国が国交を正常化する直前で、中国語を勉強すれば将来役立つと考えたからです。シンガポールは「南国の発展途上国」というイメージでしたが、実際に来てみると東洋と西洋が混在する街並みが広がっていて、エキゾチックな雰囲気がありました。
西村紘一さん(以下敬称略): 最初に当地へ来たのは、まだ学生だった1967年でした。アジアの平和と繁栄を自分たち若者の手で築いていくための対話を目的として、シンガポール、マレーシア、タイの大学を訪問しました。オーチャードにあったビルの1階で寝泊まりしたのですが、ベッドがなくて土間で寝ていたら、雨が降って泥だらけになった(笑)。その後、シンガポール航空に入社して、77年に当地の本社へ赴任しました。
森幹雄さん(以下敬称略): 私もシンガポールに来たのは1977年、アメリカ系の物流会社に就職しました。一番印象的だったのは、道路の「サーカス」(ロータリー交差点)。信号がなくて出入りのタイミングがわからず、「外国に来たな」と感じたのを覚えています。
杉野: シンガポールの漢字表記も変わりました。ね。現在は「新嘉坡」と表記していますが、昔は「星港」「星州」と書いたりしました。シンガポールに来ることを「来星」と言うのも、当時シンガポールに住んでいた日本人が作った言葉で、現在までそのまま使っているんです。
シンガポールで仕事をされる際に苦労されたことはありましたか。
森: 仕事で苦労したのは、ローカルの人たちの風俗や習慣を知ることでしたね。中国系でも福建や潮州など、ルーツによって言葉や習慣が違う上に、マレー系、インド系もいる。年に4回も正月があって、そのたびに人が休むし、アンパオ(お年玉)も渡さないといけない(笑)。ごちゃごちゃで何がなんだかわかりませんでしたが、しばらくするとそれが逆に面白くなりました。
西村: 来星してすぐに同僚と食事に行ったとき、チリを食べさせられて下痢になってしまった。だけど体を慣れさせようと毎日辛いものを食べて3週間で克服しました。それからは辛いものが好きになりました(笑)。
杉野: 南洋大学を卒業した後、現地採用で在外企業協会に就職しました。私にとって人生で初めての仕事でしたが、特に困ったことはありませんでしたね。日本で就職をしていたら、それまでの環境との違いに戸惑いを覚えたかもしれませんが、そういう経験はありませんでしたから。
シンガポールで時代の変化をどこに感じますか。
森: 70年代末には日本食のレストランが数軒しかなくて、そこに行くのは駐在員の日本人だけでした。値段も高かったし、シンガポール人が行くなんてありえなかった。ホーカーセンターなら麺料理がS$1以下という時代でしたから。それが今では日本人よりもシンガポール人の方が日本食にお金を出すようになっている。
西村: 当時は「生魚を食べるなんて日本人は野蛮だ」と言われたものですが、随分変わりましたね。日本食レストランは、いまでは1000軒もあります。私がシンガポール航空にいた頃、日本からの観光客を20万人にするのが目標でした。これが去年は70万人ほどで、当時の目標の3~4倍になっています。ところが日本食レストランの数は100倍以上に増えた。それだけ日本の文化がシンガポール人になじんだということでしょう。
杉野: シンガポールの街並みも大きく変わりましたね。私が来星した時は、オーチャードロードに36階建てのマンダリンホテルが出来たばかりで、それが国内で一番高いビルでした。オーチャードロードは当時から国内随一の目抜き通りでしたが、その頃からほとんどの建物が建て替わっています。
森: ニーアンシティのところはお墓で、ウィスマアトリアはインドネシア大使館だった。マンダリンホテルの横は駐車場で、夜になると屋台が出ていました。
杉野: マリーナベイ周辺は埋め立て前で何もなくて、ビーチロードは文字通り目の前が海でしたね。
西村: シンガポール人の生活も変わりました。私が来た77年頃の初任給はS$280。それがいまや一人当たりのGPSはS$5万5000で、日本のUS$3万8000を大きく上回っています。
森: シンガポールは経済発展のために、海外から高付加価値の産業を誘致してきましたが、時代が変わって不要になったものはすぐに切り捨てた。日本なら衰退した産業にも補助金を出したりしますが、シンガポールでは将来役に立たないものはお金は出さず、次の投資先にスイッチを切り替える。そのスピード感は日本にはありません。シンガポールは日本に学んで経済成長を遂げましたが、いまでは日本がシンガポールに学ばないといけないことの方がたくさんあるのではないでしょうか。
杉野: 最近、日本人会の100年史を書いていて改めて感じたのが、シンガポール人の対日感情が随分変わったことです。1970年にシンガポール人学生を対象に日本のイメージを聞いたところ、「先進国」という回答が一番多くて61%でしたが、ほかは「軍国主義」49%、「第二次世界大戦」20%、「信用の置けない国」11%、「エコノミックアニマル」11%と、ネガティブなイメージばかり。ところが、2002年に日本の外務省が実施した調査では、日本への好感度は80%以上で、ASEAN諸国の中でも有数の親日国になっていました。日本への感情がこれほど変わったのは、やはり日本人社会、シンガポール人社会それぞれが努力したからでしょう。
皆さんがシンガポールで成功された秘訣を教えてください。
森: シンガポール航空が1979年に日本との直行便を就航させたのは西村さんの功績。それまでは香港やバンコクなど、2、3回ストップオーバーする必要がありました。私は何回も機内食を食べられると喜んでましたけど(笑)。直行便ができて、人の動きとスピードは歴然と変わりましたね。
杉野: 日本へのシンガポール人観光客が増えたのも西村さんの働きが大きい。「北海道ブーム」も作りましたから。
西村: 11年前ですね。(プロモーションには)5年間でS$1200万(約8億円)使いました。
森: 杉野さんはこちらで大学を卒業されたので、多くの日本人にはない独自の人的ネットワークを持っている。学生時代のクラスメイトがいまではシンガポールの要人になっていたりするので、日本のどんな大企業の支店長でもかないません。それを日本人会という組織で活かされてきたのは素晴らしいこと。
西村: 杉野さんがビジネスからではなく日本とシンガポールの友好のバトンを守り続けた功績は大きいでしょう。森さんも無料誌や電話帳を作り、ラジオやテレビも立ち上げて、日本人コミュニティに貢献された。
森: 『ハローシンガポール』を出版するまで、日本人駐在員の間ではシンガポール生活に関する様々な情報を、支社長の奥さんから伝えていくというヒエラルキーがあった。それが『ハローシンガポール』を読めば全部わかるということで、縦社会が崩れてしまった。ある支社長の奥さんからは、「こんな本を出すから私の居場所がなくなった」と怒られました(笑)。
最後にシンガポールで得たものを教えてください。
西村: 一途に目の前にある道を歩んできたつもりですが、いまだ届きません。しかし、50年前にシンガポールへ初めて来た時の約束は果たしたいと思い続けています。
杉野: 日本人とは違う、シンガポール人の考え方や価値観を学びました。あとはやはり友だちです。本当に良い友だちにたくさん恵まれました。
森: 私はなんといっても家族です。北米や南米では日系人社会が100年に及ぶ歴史を持っていますが、東南アジアにはそのような日系人社会が存在しません。これから子どもたちが3世、4世とつながっていく様子を100年後にどこか上の方から見ることができたら楽しいでしょうね(笑)。
西村紘一(にしむら・こういち)
1970 年シンガポール航空入社。77 年にシンガポール本社へ異動となり、日本への直行便就航などに尽力する。80 年に自身の会社『プライムトラベル』を設立し、シンガポールからの訪日旅行促進に貢献。2008 年には国土交通省からYOKOSO! JAPAN 大使(現VISIT JAPAN 大使)に任命される。
杉野一夫(すぎの・かずお)
1972 年、中国語学習のためにシンガポールへ留学。卒業後も当地に留まり、在外企業協会シンガポール相談所勤務を経て、シンガポール日本人会に転職し、1987 年から27 年間にわたって事務局長を務める。現在は同会特別顧問として「シンガポール日本人会百年史」を編纂中。
森幹雄(もり・みきお)
日立製作所勤務、アメリカ生活、レストラン支配人などを経て、1977 年にシンガポールで米国系物流会社に入社。1980 年に海外引越し会社『クラウンライン』を設立。その後、東南アジア各地で日本語情報誌を出版するほか、シンガポールでは日本語ラジオ局やテレビ局を立ち上げるなど、海外在留邦人の生活を多方面からサポートしている。