2016.07.27
シンガポールにある日本食店は、手軽に食べられる定食から数百ドルの高級店、専門店などを入れると数え切れないが、板前が握る寿司はいつの時代でも特別な存在だ。シンガポールに本格寿司屋が登場したのは45年前。そこで寿司職人として働き、後に和食好きのリー・クアンユー氏にも認められたのが、寿司職人の野川義夫さん。今回は野川さんの歴史とともにシンガポールの移り変わりを見ていく。
寿司店「野川」店主。
16歳で寿司職人を目指し、修行を経て1972年に来星。 シンガポール初の寿司専門店で働く。後に独立し『野川』をオープン。現在も鉢巻姿で本物の寿司を提供している。
海外に出たい一心で未知のシンガポールへ
「16歳で寿司屋になろうと決めて、24歳までに海外に出ようと思っていた」。その夢を実現させ、45年間シンガポールで寿司職人として活躍を続ける寿司店「野川」店主の野川義夫さん。6年間日本の寿司屋で修行する間、築地市場や行く先々で「海外に行きたい」と話していたところ、「シンガポールに来てみないか」と声がかかった。「はい、行きます!」と即答し、1972年3月28日、6万円を持って羽田を飛び立った。羽田から台北、香港、バンコクを経て約13時間でやっとシンガポールに到着。「その頃はまだパヤレバ空港で着いたのが夜だったけど、裸電球だけで、真っ暗な国だなぁと。日が明けたらきれいな街だなと思ったけどね」と振り返る野川さん。野川さんが来星した頃の給料はS$500。店のウェイトレスでS$75〜S$100、ローカルの料理人でS$200ほどが相場だった。「銀座では月6万2000〜6万3000円くらいもらってたんだけど、(シンガポールの給料は)米ドル500ドルだから倍だ!って。でも来てみたらシンガポールドルだったからだまされたと思った(笑)」という苦いエピソードも。
ローカルのエリート顧客層が急増
1979年に独立し、ラッキープラザに14坪、カウンター12席の寿司店をオープン。店の評判は上々だったが、当時1貫S$7の高価格設定にクレームをつける客も多かったと苦笑いする。「イエローモンキーだって言われたり。クレームが多かったから、いつも仕入れのインボイスを持っておいてその度に説明して、原価がS$4なのにS$7で売って何が悪い!って毎日やっていた」。100%日本人が占めていた客層にローカルが増えだしたのは約20年前から。NYの金融街で「カッコイイ」「クール」「ローカロリー」とブームになっていた寿司を食べたエリートたちがシンガポールに戻り訪れていたのでは、というのが野川さんの見解だ。その後日本食人気は衰えることなくさらにローカル顧客層が増え、現在では昼で約90%、夜は約70%を占めている。
リー・クアンユー元首相が好んだ寿司
野川さんといえば、今は亡きリー・クアンユー元首相が贔屓にしていた寿司職人としても知られている。リー氏自ら店にも数回訪れたほか、毎年リー氏の誕生会、イスタナや大規模なパーティなどに招かれ寿司を握うことも多かった。「日本食のことをよく知ってましたよ。あまりしゃべることはなかったけど、一度だけ、シンガポールのジョブホッピングはひどいよ!って直訴したことがある。答えはくれなかったけど、そんな状況もちゃんとわかってたと思うな」と親日家のリー氏との思い出を話す。
寿司職人人生に悔いなし
シンガポールに来て45年。寿司職人一筋、英語や福建語などは接客で覚えた。「鉢巻を見てそれ何だ?って聞かれるんだけど英語で説明できなくて。たまたまゴルフをしている時にコンセントレーション(集中)って聞いて、これだ!と。それからは、これ(鉢巻)はコンセントレーションベルトだって言ってる」と笑えるエピソードも数知れず。若くして未知の世界での生活が始まったものの、ホームシックにもならず寿司職人として充実した日々を過ごしてきたという野川さん。「学はないけど見識はいっぱい持ってますよ。日本であえない人にも会えるし、普通の日本の板前に比べたら何十倍もいろんなことを教わった。シンガポールに来たのはラッキーだったし、チョイスも正しかったなと思う。50年近く寿司屋をやってきてやりたいことはやったから、もう失くすものは何もないね」と笑顔を見せる。カウンターに入りいつもの鉢巻を巻く姿を見ると、こちらまで気が引き締まるような感じがした。シンガポールの発展とともに成長し、寿司文化を広めてきた第一人者。今日もカウンターで自慢の寿司を握りながら、楽しみに訪れた顧客との会話を楽しんでいる。
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