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2025.05.05

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「金なし、コネなし、学歴なし」⸺“三流”だからこそ勝てたアジアビジネスのリアルを描いた一冊、『アジアで負けない三流主義』。引き続きお楽しみください。

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第5章 すべては人のために

お金で買えない喜びのある仕事を
日本語FM放送への手紙

 女性は、娘を抱え、自ら命を絶とうとしていた。

 両親の反対を押し切り、シンガポール人男性と結婚。海を渡った。子どももできた。

 しかし、夫の失業から生活は一変した。夫婦の関係は壊れ、経済的にひっ迫した。

 日本にいる友人には今さら相談できない。親はどちらもすでにこの世を去っていた。公団住宅の屋上から身を投げるしかない。その時、FMラジオから美空ひばりの曲が流れてきた。懐かしい声。間違いない。彼女が子どもの頃、母親が大好きだった曲だ。

 そして、死ぬことを思いとどまった。

「私の人生に新しい光、そして心の落ち着く場所をくれたDJの皆さん、そしてJ-PLUS®COMMの皆さん、本当にありがとうございます。これからも皆さんを心から応援していますので、お身体に気をつけてステキな番組作りをがんばってください」

 そうつづられていた。

 私の人生で最高の勲章は、シンガポールでやっている日本語FM放送『ハローシンガポール FM96.3』に寄せられたこの手紙だ。

 番組では、リクエストをくれたリスナーの中から抽選でデジタルカメラのプレゼントを行っていた。当選したのがこの女性だった。

 しかし、辞退されたのだ。

「私は、番組から景品以上のものをいただいたので・・・・・・」という理由で、届いた手紙の中に、自殺を思いとどまった内容が書かれていた。

「少しずつ、一歩一歩前を向いて、歩いていこう」

 そう心に誓ったという。

 手紙を読み、私は溢れる涙をこらえることができなかった。たった1曲の歌が人の命を救った。ラジオの持つ可能性を知った。

 1998年10月12日、私は日本語のFM放送局を東南アジアで初めてシンガポールに開局した。

 きっかけは阪神大震災だった。震災7日後に神戸を訪れたとき、その無残な光景に言葉を失った。そして思った。日本語が通じる日本でさえどうしようもないのに、海外で、ましてや日本語が通じない場所で日本人が災害に遭遇したら。もし、その場所に日本語のラジオ局があれば、緊急時に何かの役に立ち、その後のライフラインのケアができるのでは、と。

 事実、東日本大震災のとき、おおいに役立ったと聞いた。

 現在は放送を終えたFM放送局だが、実はこの事業はビジネスとして成り立っていない。

 すでに大きな家を2、3軒建てられるほどの資金をつぎ込んでいるが、回収の見込みも立っていない。というよりも、回収できる可能性はゼロといっていいだろう。
 
 このままでいいのかと考えなかったわけではない。しかし、お金では買えない価値があると、私自身は信じている。そして、この手紙を読んだとき、放送を続けてよかった、そう心から思った。私の人生最高の手紙だった。

「ずっとお世話になっている東南アジアの日本人社会に恩返しするためにも、この放送を続けよう」

 心に決めた。

 彼女からの便箋3枚の手紙は、何にも優る私の宝物だ。

 

人の心にある郷愁に訴える
DJ業のスタート

 FM放送では、きっかけがあって私もDJをした。

 それはある週末の出来事だった。早朝5時に私の携帯電話がけたたましく鳴った。前夜の深酒のせいもあって寝ぼけた頭のまま出ると、FMラジオのスタジオを管理している現場スタッフが大声で言った。

「放送間近になってもDJが来ません!」大慌てだ。「時間になれば来るやろ。慌てずに待とうや」そう言って、またベッドに入った。

 しかし、その後もDJはつかまらず、放送開始時間の6時ぎりぎりにスタジオにかけつけ、即興で私がしゃべり続けた。

 ところが、私には流行の音楽の知識がない。しかたがないので、1970年代、1980年代に流行ったジャパニーズ・ポップスのヒット曲をかけ続け、その合間に当時のプライベートな出来事などを思いつくままにしゃべった。

 それが妙に受けた。私が選んだ曲としゃべった内容が、リスナー自身の思い出と重なって懐かしく感じてくれたらしいのだ。

 異国の地で暮らす人たちは、故郷への強い思いを持っている。郷愁が溢れだすスイッチを私が押してしまったのだろう。

 ピンチヒッターで私がDJをした2時間、メールやFAXが途絶えることなく届けられた。
 
 あの喜びは、DJを体験した人間にしかわからないかもしれない。目には見えない、でも間違いなくどこかに存在する誰かとつながっている感覚は実に新鮮だった。その喜びに味をしめ、その後私も毎週1時間の番組を持つことになった。


DJを始めた頃。今思えば破天荒な異色のDJだった

 ところで、初めてDJをした朝、番組終了後、空腹に耐えられず、放送局内の食堂へと駆け込んだ。廊下でも、食堂でも、すれ違う人誰もが私を奇異の目で見つめた。

 気づくと、私はVネックの下着にステテコ姿だった。慌てすぎて起きたままの姿でクルマを運転し、スタジオ入りしていたのだ。

 

人の縁は大切に
DJから落語家になったスタッフ

 桂三枝さん(落語家)、三遊亭良楽さん(落語家)、吉幾三さん(演歌歌手)、日野皓正(てるまさ)さん(ジャズ・トランペット奏者)、細川ふみえさん(タレント)、相川七瀬さん(歌手)、Ryuさん(『冬のソナタ』の主題歌を歌った韓国人シンガー)、秋川雅史(まさふみ)さん(テノール歌手)、豊田泰光さん(野球評論家)、金原ひとみさん(芥川賞作家)…..など、私の番組には実に多くの方がゲストで来てくれた。

 なかでも、吉幾三さんは、シンガポールをテーマにした曲を作詞・作曲してくれた。

「何百曲も作詞作曲されている吉幾三さんならば、シンガポールを題材にした曲を作るなんてお手のものでしょう」

 放送中のノリで持ちあげた。

「わかりました。やるぞー!」と、本当に引き受けてくれたのだ。

 それでも、なにしろ多忙な演歌歌手の方なので、空手形だと思っていたら、1か月ほどして、CDが送られてきた。それはまさしくシンガポールをテーマに作詞・作曲し、吉さん自らが歌った曲だった。

 感激した。

 吉本興業に籍を置く落語家の笑福亭鶴笑さんがシンガポールに移住されてきたときも、まっ先にお願いし、出演していただいた。

 鶴笑師匠の奥様は教員の資格を持っていてすぐに職を見つけたものの、落語家の師匠はなかなか仕事が見つからない。勇気のある選択だと感心した。

 しかし、私の番組はスポンサーもつかないので、出演料はなしだ。師匠にそれを伝えると、大笑い。

「吉本もお金には厳しいけれど、それ以上やなあ」

 そう言いながらも、毎週私とペアで演歌の番組をやってくれた。しかし、この歌番組、師匠の芸人魂が過熱して、回を重ねるごとにしゃべるわしゃべるわ。いつの間にか歌番組ではなく、お笑い番組の雰囲気になっていった。

 やがて師匠の人気はウナギ登り。シンガポールだけではなく各国で売れ始め、ついたは文化庁の文化交流使に任命され、今度はイギリスに渡って行った。シンガポールはイギリス連邦の一員だからだ。

「イギリスのスタンディングコメディに殴りこみや!」

 師匠は意気込んで渡英した。

 さて、これには一つエピソードがある。師匠と私の番組には、日本語FM放送の別組でDJをしていた一社員が音響スタッフとして参加していた。小さな放送局だから、何でもやらなくてはいけなかった。その社員の小野綾子が、師匠がシンガポールを離れる際に弟子入りし、一緒に渡英した。

 そして6年後の2010年、小野は笑福亭笑子としてシンガポールで凱旋公演を行った。主催はもちろんクラウンライン・グループだ。
 
 小野はもともと関西のラジオ局でパーソナリティをやっていた。その後シンガポールに来て、友人の紹介で放送局開局のスタッフとして採用されたのだ。

 ところが、マイクの前でしゃべらせてみると、原稿は噛む、漢字は読み間違える、しかも遅刻はする。それでもアドリブが利くせいか、妙にリスナー受けするDJだった。

 彼女は鶴笑師匠のもと、イギリスで修業をし、日本に帰って女流落語家兼腹話術師として活躍。2010年に子どもを育てるのに適する土地ということで、またシンガポールに戻ってきた。親しい人間の成長した姿を見るのは何よりの喜びだ。

 

少年の夢の後押しをする
チャリティで中田さんとプレイ

 ビジネスとは異なるが、2011年には実に印象深い出来事があった。

 中田英寿さん率いるTAKE ACTIONチームとシンガポール選抜のチャリティサッカーに出場したのだ。

 このゲームは、シンガポールのサッカーリーグが中田さんの主宰する一般財団法人、TAKE ACTION FOUNDATIONに呼びかけて実現したチャリティマッチで、その収益は東日本大震災への義援金になる。日本からは、中田さんのほかに、澤登正朗(まさあき)さん、北澤豪さん、前園真聖(まさきよ)さんといった著名な元日本代表選手、そしてアルビレックス新潟の選手がやってきた。

 シンガポールの人々はチャリティ活動に積極的だ。試合を前にしてすでに地元企業から約2,000万円の寄付が集まっていたそうだ。

 なぜ、このチャリティマッチに私が出場することになったのか、出場の権利をチャリティオークションで競り落としたのである。

 オークションは試合前々日夜、チャイニーズレストランで行われたチャリティディナーで開催された。中田さんが選手時代に着た背番号7のユニホームなどが次々と出品された後、オークションの目玉「日本チームのベンチに90分間入れる権利」と「日本チームのメンバーとして5分間、チャリティマッチに出場できる権利」が出品された。

 いずれの入札も白熱したが、最後は私ともう一人の一騎打ちとなり、相手の入札に対し、私はその上の金額を息もつかせず提示していった。そして、ベンチ入りの権利と試合出場権の両方を落札したのだ。

 なぜ二つを落札したか。それはベンチ入りの権利をサッカーが大好きな、地元の孤児院にいる少年にプレゼントするためだった。

 競り合っているさなか、中田さんがふと金額を吊りあげてくれてありがとう、という意味合いのまなざしをくれた。この額が東日本大震災への義援金になるのである。

 しかし、試合出場権を競り落としたものの、私はサッカーの経験がほとんどない。最後にやったのは高校の体育の授業だ。それでも、新しいスパイクとすね当てを買い、髪は中田さんと同じ色に染めた。ユニホームは、チームの一員として、TAKE ACTION FOUNDATIONのロゴ入りのものが支給された。

 いよいよ試合当日。ロッカールームから通路を通り、フィールドへ入場するときのあの興奮は凄まじかった。あんな気持ちは過去に味わったことがない。青々とした芝の上では、入念にウォーミングアップを行い、孤児院の少年ディーン君とともに、中田さんからボールの蹴り方の基本を教わった。

 出場時間の後半最後の5分はあっという間だった。58歳。ちょっと走っただけで心臓がバクバクして、破裂しそうだった。

「ゴールに向かって蹴れ!」

 中田さんが檄(げき)とともにパスをくれるが、結局相手ディフェンダーに阻まれてしまう。

 そんななか、中田さんの厚意でベンチに入るだけではなく、試合にも出場させてもらったディーン君が中田さんのアシストで2ゴールも決めた。私は自分のことのように感激した。

 彼の夢はプロのサッカー選手になることだという。

「必ず夢を実現しろ!困ったことがあったら、いつでもオレのところへ来い!」

 そう言って、私はディーン君を強く抱きしめた。

 

若手を育てろ
アジア実践塾を開講

 今、私は日本の若いビジネスマン、起業家、そして女性経営者、国内ですでに実績を挙げている人に、アジアでビジネスをすることを提唱すべく、「森幹雄のアジアビジネス実践塾」というのを立ち上げようとしている。

 縁あって知り合った、このプロジェクトをサポートしてくれる人が言うには、なんでも27歳で起業し、その後45年間も継続、しかも他の国へ進出したり、本業以外の事業も成功させている経営者は非常に少ないのだそうだ。そして、これから必要なのは、海外でも事業展開できる経営者の育成である、と。

 これを聞いたら、いてもたってもいられない。そんなわけで私のこれまでの経験を、DVDやセミナーで提供することにした。

 少しでもアジアで勝負しようと思っている人のお役に立てればと考えている。

 

続き「第6章」(#9)こちらからどうぞ

 


『アジアで負けない三流主義』
ゲーテビジネス新書 幻冬舎

 


著者:森 幹雄(もり みきお)
クラウンライン・グループ社主・CEO
海外日系新聞放送協会副会長
アジア経営者連合会理事
シンガポール日本人会理事

1953年京都府生まれ。工業高校卒業後、日立製作所入社。退社後、アメリカを経て、単身シンガポールへ渡る。外資系引っ越し会社に3年間勤務後、日本人による日本人のための海外引っ越し専門会社クラウンラインを設立。今では11か国21都市に進出する。本業以外にも出版・情報サービス、イベント企画などを展開中。
アジアビジネス実践塾 www.sg-biz.com
✉:mori@comm.com.sg まで、お気軽にご連絡を!