「金なし、コネなし、学歴なし」⸺“三流”だからこそ勝てたアジアビジネスのリアルを描いた一冊、『アジアで負けない三流主義』。引き続きお楽しみください。
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第4章 挫折と失敗を乗り越える
日本人・関西人の特性を生かす
あらゆる局面で自社を差別化
現在、クラウンライン・グループ全体の年商は約62億円だ。まずまずの状況だと自負している。1年目から1億5000万円を売り上げた。
なぜ最初からビジネスが軌道に乗ったのか。理由の一つには、私が関西出身だったことが大きいと思う。
シンガポールは値引きの国だ。
「で、なんぼやねん?」「なんぼまけてくれんのん?」というノリなのだ。
だから、関西出身の私には最初から抵抗なくやり取りができた。そして、アメリカ行きの資金を貯めたブリタニカの商法も、海を越えたこの土地で通用したのだ。
仕事の内容としても、日本人であることが有利に働いた。
シンガポールの引っ越し業界全体のマーケット規模は、ここ何十年ほとんど変わらない。2倍、3倍にもならなければ、2分の1、3分の1にもならない。決まったエリア内での顧客の争奪戦だ。
その場合、特徴のある会社が有利になる。その点、日本人は仕事が丁寧だ。梱包の技術、器用さも抜群。さらに知恵も働く。破損の心配があるものが入った箱に「取扱注意」とか「コワレモノ」というステッカーを貼るのは日本では当たり前だが、当時のシンガポールでは希少だった。そういう繊細さが信用につながり、間違いなく評価される。
加えて、現地採用の社員の選び方もうまくいった。
シンガポールは激しい学歴社会で、小学生の時点の成績で優秀な子はラインに乗る。奥手だと不利だ。でも、当然、10代後半から力を発揮する子も多い。私はそういう子を狙って、学歴にこだわらずに雇用したのだ。実際、彼らは大きな戦力になった。そもそも小学校の時点で、将来、仕事ができるかできないかなんてわかるはずがない。学歴なんて関係ないのだ。
これらのことが、クラウンライン・グループには実に有利に働いた。
最後は腹をくくる
損害賠償3億円を請求される
しかし、もちろん順風満帆で来たわけではない。
「驕(おご)れる平家は久しからず」という言葉があるが、ピンチはこれでもかこれでもかと波状攻撃のようにやってきた。
最初のピンチは、海外引っ越し業務が順調に拡大し、次のステージとして運輸業全般へと手を広げようとしたときにやってきた。ボクシングがまさしくそうだが、攻めようとして腕を伸ばすと、その伸ばした腕によって防御が甘くなる。攻撃は同時にリスクでもあるのだ。
1980年代、イラン=イラク戦争が始まった頃のことだ。現地社員を雇用して新規開拓をし始めたある日、大きなビジネスチャンスがめぐってきた。
中東のこの戦争のため、イラクのバグダッドへの輸送が困難を極めていた。通常は海運で同国第2の都市であり唯一の港町バスラで荷揚げして、陸路バグダッドへ向かうルートがとられる。しかし、当時のバスラ港にはおびただしい数の機雷が浮いていた。
そこで、新規のルートとして隣国のクウェートで荷を陸揚げし、陸路でバスラ、バグダッドへ運ぶプランを計画し、あるイラクの船会社に提案した。4回の運送の契約が成立。1回の売上が5,000万円。総売上は計2億円。利益は8,000万円という計算だった。興奮を抑えられなかった。
ところが、このプランが最終的には失敗に終わる。輸送前に船会社が倒産したのだ。
「お前の責任だ!損害賠償として3億円を支払え」
荷主がうちの会社を相手に訴訟を起こした。弁護士と何度も何度も対抗策を練ったが、埒があかず、しまいには銀行口座も凍結された。
心底まいった。
この当時、仕事はイケイケ。有頂天になっていた。大きな家を購入し、メルセデスを乗り回し、接待と称して毎夜毎夜高級クラブをはしごする暮らしを送っていた。
ところが、生活は一変。食欲を失い、夜になっても眠れず、裁判のことが頭から離れることは一瞬たりともなかった。頬がげっそりとこけた。
「オレがどんな悪いことをした?悪いのはすべて倒産した船会社じゃないか!」自分で自分を弁護する日々を送った。
「あなた、このままじゃ気が狂ってしまうから、日本に帰りなさい。スーツケース一つだけでシンガポールに来たんだから、またスーツケース一つで日本に帰ればいいじゃない。大丈夫!子どもたちは私が立派に育てるから」
見るに見かねたマレー人の妻から言われた。
この言葉が、かえって私の気持ちに火をつけた。
「これくらいのことで負けてはいけない」気持ちを切り替えることができたのだ。
「妻の言う通り、スーツケース一つで来たんだから、スーツケース一つで帰ればいい。でも、どうだ?今度の件でオレは闘ったのか?このままでいいのか?」
自分に問いかけた。くよくよするだけで、何一つ努力も工夫もしていない自分に気づいたのだ。ここで、気持ちを改めた。荷主と裁判で争うのではなく、今回のプロジェクトの収益をすべて渡すことにしたのだ。3億円にははるかに届かなかったが、先方もこちらの気持ちを汲み、提案を受け入れ、示談が成立した。
この危機を乗り切った過程で、私は裁判手続きや弁護士との交渉やコミュニケーションのとり方を学んだ。
そして、何よりも、追いつめられた時に腹をくくる大切さを知った。
あれ以降、妻には頭が上がらない。
どんな時でも社員を第一に考える
日本人社員全員が退職
第2のピンチは、社員の造反である。
会社を興してしばらくは、私はいわゆる“オレ様”体質で誰の言うことも聞かず、自分の思うことだけを倍じていた。何しろ、シンガポールの海外引っ越し会社ではトップの売上だったのだ。自分には未来永劫金が入ってくると信じて、まったく疑っていなかった。
「経営なんてどうってことない」本気でそう思って、仕事をなめていた。
当時は4人の日本人社員を雇用していた。4人とも日本になじめず、ドロップアウトして海を渡ってきた者たちだ。学歴が低かったり、家庭に問題を抱えていたり。
「もっともっと頑張って、成果を挙げて、日本にいるヤツらを見返せ!」
そう言って、私はいつも彼らの尻を叩いていた。
しかし、彼らがどんなに必死に働いても、豊かな暮らしをするのは私だけ。経営者と従業員との生活の格差はものすごく大きかった。
「ええか?お前ら、経験あんのか?あらへんやろ?それでも雇ってんのや。そんなヤツに高い賃金は払えへん。我慢せえ。この会社は海外で働くためのノウハウを身につけるビジネススクールだと思え。給料を払うどころか、本当ならお前らから授業料を取りたいくらいや。ええか?お前らを雇うのはこの国ではオレだけや。憶えとけ」
ムチャクチャな理屈を言っていた。しかも、私は猜疑心(さいぎしん)の塊だった。社員などまったく信用しない。自分は毎夜毎夜クラブで高い酒を浴びるように飲んでいるくせに、社員のほんのわずかな息抜きも、容赦しなかった。彼らのレシートは一枚一枚チェックし、就業時間中に映画を観たり、お茶をんだ形跡があれば、叱るというか、脅した。
「お前、何しとんのや?今度同じことしよったら、クビやで。翌日から路頭に迷うんやで」ガチガチに締めつけた。
「ええか?お前、オレの気持ち一つで二度とこの国の土踏めんようになること、よう憶えや!」
酒を飲むたびに脅していた。
4人のうち一人だけは一つ年下だったが、3人は年上。私よりも15歳も上の社員もいた。妻もいれば、子どももいる。それでも、彼のプライドなど気にもかけず、容赦なく締めつけた。
そんなある日、社員の一人が壊れた。気持ちが行き詰まったのだろう。妻が貯めていた子どもの養育費でバイクを買ったのだ。しかも、すでに借金があることも発覚した。
「こいつはアカン」
私は判断し、解雇した。
イラクの船会社のトラブルで会社に体力がなくなっていた時期のことだ。不安に感じたほかの3人も、同時に辞めた。
会社に日本人は私だけになった。
しかも、辞めた社員がクラウンラインで働いて身につけたノウハウで、競合会社を立ち上げた。その会社は結局うまくはいかなかったものの、人を大切にしなかったことを私は強烈に悔いることになった。
ピンチは波状攻撃のように来る
社員の失踪。そして死
日本人社員がいなくなり、しかも自分のもとから競合会社を生んでしまった私はすぐに人員を補強した。
事情が事情なだけに、今度は即戦力でなくてはいけない。それまでの方針を変更し、自分のような、“三流”ではなく、高学歴の男性を採用した。超有名校の初等科から大学まで通った男だった。
不安はあった。社交的なのはいいが、お調子者で、見栄っ張りだったのだ。裕福な家庭で生まれ育ち、ゴルフと水上スキーとラリーをやっていた。離婚経験は2度。いわゆるバツ2で3人目の妻と暮らしていた。
採用してみると、仕事の段取りはいい。社交的だから、社内外の人間とのコミュニケーションも抜群だった。しかし、次第に彼の人間性のほころびが見えてきた。
借金があったのだ。しかも、どうもそれが増え続けているらしい。やがて、返済を求める電話が会社にもかかってくるようになった。
そして、ある日突然失踪。
何日も出社せず、社宅に様子を見にいくと、置手紙があった。
「借金がかさみ、ヤクザから脅され、立ち行かなくなりました。妻とともに日本に帰ります。すみません」そうつづられていた。
狭い引っ越し業界では、こういう噂はあっという間に広がる。
「また例の会社の例の社長のところで問題が起きたらしい」
私は「例の社長」と表現されるようになった。いい酒の肴だ。
ほどなくその社員のさまざまな借金が私のもとに回ってきた。クレジットカードの未決済分、飲み屋のツケ、百貨店で購入した商品のローン・・・・・。会社のクルマを担保にした借金もあった。私はそれらを払い続けるはめになった。
さらに、大口の買い物も。ローンでモーターボートとクラシックカーを購入していたのだ。モーターボートはすぐに転売し、クラシックカーのフォード・ポピュラーは自分で乗ることにしたが、合計で3,000万円ほどの損失となった。
この時期、もう一人、日本人男性を雇用している。
知り合いのシンガポール人女性の友人の夫だった。つまり国際結婚である。紹介者がいるというのは一種の保険がかかっているようなもの。安心して雇った。
実際、彼は実によく働いてくれた。日本でも過酷な労働条件で知られる大手運送会社で働いていたので、経験も豊富な即戦力だ。ありがたかった。
しかし、やがて彼も家庭内で何かしらトラブルを抱えていることがわかる。国際結婚なので、意思の疎通がなかなかうまくいかないらしい。でも、それが勤務態度に影響することはなかった。
「僕は家に居づらいので、週末も働かせてください」そう言って、土・日もいとわず出勤してくれた。
ところが、社員全員での食事会の帰り道、彼は豹変した。
その週末の夜、酒を飲んでいない彼が運転するクルマの助手席に私はいた。これからも頑張ろう!とみんなで確認しあった帰り道だ。私はほどよく酔っていた。気持ちのいい夜だった。
オーチャード・ブールバードという大通りで、気づくと妙にスピードが出ている。不安になり、ハンドルを握る彼の顔を見ると、表情がひきつっているではないか。嫌な予感がした。やがて、目の前に急カーブが迫ってきた。すると、彼はブレーキを踏むのではなく、アクセルをふかした。
「バカ野郎!」思わず叫んだ。
すると、彼はつぶやいたのだ。
「死にたい・・・・・。社長、このまま死んでもいいですか?」
「やめろ!お前、あんなにかわいい子どもたちを不幸にさらすな!」
必死になだめ、その夜はなんとか帰ることができた。
しかし、彼の姿を見たのは、その夜が最後になった。翌日、妻と喧嘩をした彼は酒を飲んで家を飛び出し、クルマで暴走し、自宅近くのバス停の柱に突っ込んだのだ。即死だった。
「オレは彼のために何もできなかった・・・・」
苦しかった。懺悔の気持ちで、その日のうちに頭を坊主にした。最低限のおわびをと思い、子どもが母親の手を離れるまで、彼の家族の経済的なケアをさせてもらった。
会社の経営そのものはさまざまな困難を乗り越えてきたが、それでも神様は私に次々と試練を与えた。
前にも書いた通り、引っ越し業は信用がものすごく大切だ。顧客の財産のいっさいを預かるビジネスだからだ。だから、トラブルが起きると、その大切な信用はがた落ちになり、仕事が次々とキャンセルになる。
こうしていろいろ大変なことはあったが、会社はそのつど困難を乗り越えてきた。
「もっと」「もっと」と欲しがり続ける
森幹雄成功の秘訣 その1
ここで、クラウンライン・グループ、ひいては私、森幹雄が、あまたの困難を乗り越え、なぜここまでやってこれたか、その成功の秘訣を整理してみる。
まず一つ目は、
「汲めども尽きない強い願望。欲望を常に抱き続ける」ことである。
つまり、子ども時代の貧しかった経験のおかげで、人一倍欲望の強い人間になったことだ。ひと言でいうと、私は異常なハングリー精神の持ち主なのである。
社会にある不公平を食事や学歴を通して体感し、私は大人になった。だから「欲しい!」という欲求が強烈だ。そして、同時に、人に手をさしのべられた時の感謝の気持ちも強い。
もし裕福な家庭に生まれ育ち、あらゆるものを最初から持っていたらどうだろう?こんなには頑張らなかったはずだ。
しかし、われながら驚くのは、このハングリー精神、70歳を超えてもまったく衰える気配がないことだ。
「絶対にもっと成り上がる!」
「今ある暮らしをさらに飛び越える!」
現在も毎日思い続けている。
ずっと欲しかった何かを手に入れてなお、「もっと」「もっと」とさらに欲しくなるのだ。
強い妻を持て
森幹雄成功の秘訣 その2
「恐妻ではなく、強妻を持つ」
これが、二つ目の成功の秘訣だ。
「私の一番つらかった闘いは、最初の妻とのものだ」
これはプロボクシングルヘビー級世界チャンピオン、モハメド・アリの言葉だ。
大きな成果を手にする人はみんな強い妻を持っている。天空神ゼウスに始まり、最後のロシア皇帝ニコライ2世、ソクラテス、リンカーン、モーツァルト・・・・・・身近なところではプロ野球の野村克也元東北楽天ゴールデンイーグルス監督や落合博満前中日ドラゴンズ監督に至るまで、みんな悪妻、いや強妻に支えられてきた。
優しくてかわいい女性と結ばれればそれはそれで楽しいかもしれない。しかし、それでは家庭での叱咤激励は期待できない。当然、ごく当たり前の家庭のごく当たり前の幸せしか手に入らない。それはそれで幸せかもしれないが、何かを成し遂げようとしたら、やはり強い妻を選ぶべきだ。
その点、私は恵まれた。
私はシンガポールに来て、マレー人の妻をもらい、5人の子どもを育てた。
シンガポールのマレー系女性は基本的には恥ずかしがり屋で、夫を立て、家を守る。
しかし、ここぞというときは強靱さを発揮する。バスラからバグダッドへ荷を運ぶどジネスで訴訟を起こされて、私が意気消沈しているときも、妻は堂々としていた。
「子どもは私が育てるから心配しないで」
「またスーツケース一つから始めればいいじゃない」と言い放った。
あの言葉に、どんなに私は発奮させられたことか。
彼女は日系の大手造船所で購買部部長の秘書をしていた。その会社には約80人の日本人が働いていたので、私は引っ越し業の営業で毎日通っていた。最初は仕事を得ることが目的で彼女の気を引こうとした。お菓子を持っていき、やがて食事に出かけ、交際が始まった。
結婚を決めたのは、子どもができたからだ。
しかし、彼女はイスラム教徒の家に生まれ育ち、両親は宗教の違いを理由に猛烈に反対した。親戚に合わせる顔がないのだという。
しかし、妻の決意は固かった。
「親兄弟、親戚すべてと縁を切ってでも一緒になる」そう言った。
回教徒は回教徒の方式で政府に届け、挙式する。しかし、私は異教徒になるため、彼女の親兄弟だけでなく、友人たちの誰一人として、仲人や見届け人や保証人になってはくれなかった。
「50ドルで2時間、お付き合いいただけませんか?」オーチャード・ブルーバードで見知らぬ人に頼み、ウィットネス(保証人)になってもらった。
役所に結婚届を提出した時、空が泣き出した、それはやがて大雨になり、小さなカフェでたった二人、温かいコーヒーとケーキをいただいた。誰にも祝福されず、式も挙げず、記念写真もない、二人だけのセレモニーだった。
あの日からずっと、どんなピンチが訪れたときも、妻は私に寄り添ってくれている。
強妻とは、イコール良妻なのである。
生まれ育った土地を離れよ
森幹雄成功の秘訣 その3
成功の秘訣の三つ目は、現実的なことをあげたい。
それは、自分が生まれ育った土地を離れてビジネスを展開することだ。
人は往々にして勝手知ったる地元でビジネスを始めようとする。安心だからだ。不安を少しでも軽減させたいのは誰もが持つ自然な感覚だ。
しかし、最初に身内や友人を顧客にしなくてはいけない保険の外交員でない限りは、見知らぬ土地でチャレンジすべきだ。
なぜならば、退路を断つことが大切だからだ。
これまでにさんざん書いてきたが、ビジネスにはトラブルがつきものだ。順風満帆にいくわけがない。何か問題が起きた時、生まれ育った土地だと、つい人に頼ってしまう。その時は解決するかもしれない。しかし、自分の力で解決していかないと、力がつかないので、次のトラブルでまた苦労する。
それに、ビジネスは敵を作る。憎まれもする。それはほとんど避けられない。
でも、見知らぬ土地ならば、妙な情に流されずに、強気でことに臨める。大きな恥をさらすことになっても、それによる心のダメージは少なくてすむので、大胆にふるまえるものだ。
だから、退路を断て!
それには海外がベストである。
続き「第5章」(#8)はこちらからどうぞ
『アジアで負けない三流主義』
ゲーテビジネス新書 幻冬舎
著者:森 幹雄(もり みきお)
クラウンライン・グループ社主・CEO
海外日系新聞放送協会副会長
アジア経営者連合会理事
シンガポール日本人会理事
1953年京都府生まれ。工業高校卒業後、日立製作所入社。退社後、アメリカを経て、単身シンガポールへ渡る。外資系引っ越し会社に3年間勤務後、日本人による日本人のための海外引っ越し専門会社クラウンラインを設立。今では11か国21都市に進出する。本業以外にも出版・情報サービス、イベント企画などを展開中。
アジアビジネス実践塾 www.sg-biz.com
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