• ビジネス

2025.02.26

約10年前に出版された一冊の本『アジアで負けない三流主義』を紹介する。今も色褪せないビジネスの知恵、アジアでビジネスを成功させるための方法とは何か。金ない、コネない、学歴ないの三流中の三流だからこそ勝負できるという、その極意が綴られている。

前回の内容はこちらからお読みいただけます!


第1章 お金はないほうが強い

買えなければ自分で作れ
競輪用自転車製作記

 小学6年生のときには、自転車が欲しかった。競輪選手が乗るようなスポーツタイプだ。当時、私は新聞配達のアルバイトをしていたのだが、その配達先の家に、競輪の選手をしているお兄さんがいた。そのお兄さんが乗る自転車がものすごく恰好よかったのだ。

 なにしろプロ仕様。私は同じものが欲しくて欲しくてたまらない。しかし、高額で、とうてい買うことはできない。もちろん、親に「買って」なんて言えない。

「オレの手で作ればいいやんか」ある日、ひらめいた。

 私はお兄さんの自転車をつぶさに観察し、クズ鉄屋を訪れた。クズ鉄の山に入って、自転車の部品を物色するためだ。フレーム、ハンドル、サドル、ペダル・・・・・・部品を集めてきて、お兄さんの自転車を参考にしながら、少しずつ組み立てていった。

 そして、ついに完成した。色やデザインはちぐはぐだけど、立派な自転車だ。走りもいい。しかし、出来上がってから気づいた。ブレーキがないのだ。あわてて、お兄さんの競輪車両を確認して初めて気づいた。その自転車にもブレーキが付いていなかった。後から知ったのだが、競輪の自転車にはブレーキはない。ペダルを逆回転させることによって停止する仕組みになっているのだ。それを参考に作ったために、私のオリジナル自転車にもブレーキは付いていなかった。

  

営業は相手の心に入り込め
新聞拡販で京都一に

 小学生のときにやっていたアルバイトは新聞配達だった。地元の京都新聞を配って廻った。毎朝、起床は5時前。起きたらすぐに専売店へ赴き、1時間半ほどかけて担当の家々に配達して廻る。

 新聞配達の仕事は、実はこれだけではない。チラシの折り込みと拡販がある。チラシの折り込みは、新聞に広告を挟み込む作業だ。前夜に一度専売店を訪れ、すでにある広告を新聞に挟み込めるように折って、くくって、束ねておく。そして、翌朝新開が専売所に届いたら折り込んで配達する。この作業を行うと、その分アルバイト料が上乗せされた。

 一方、拡販は、京都新聞以外の新聞をとっている家庭を訪ね、京都新聞に切り替えをお願いする営業だ。これは今なお各社激しい競争をくり広げている。この拡販、普通にお願いしても切り替えてもらうのは難しいので、最初の3か月を無料にしたり、タオルや洗剤をおまけに付けたり、あの手この手を講じて契約を増やす。これも、獲得数に応じて、歩合でアルバイト料に上乗せされた。

 京都新聞の専売店は、同時にデイリースポーツ新聞も扱っていた。今でも阪神タイガース情報を満載している、ほかのどこの球団よりも、サッカーよりも、競馬よりも、なによりもタイガースを優先させて1面をつくるあのデイリーだ。

 別名“阪神タイガース新聞”ともいわれるディリーは、当然プロ野球のシーズンオフに部数が落ちる。そのため、毎年プロ野球が開幕する春に新規獲得キャンペーンを、オフに入る秋に契約解除を防ぐキャンペーンを行う。このキャンペーンの契約獲得数優秀者には、豪華賞品が用意された。

 そして、ある年の、その賞品の一つがペリカンの万年筆だった。今思えば、なぜあれほどまでにと感じるほど、ペリカンの万年筆が欲しかった。一度そう思うと、欲しくて欲しくてしかたがないのはいつもの通りだ。その年の拡販には俄然気合が入った。

 どうすれば契約を獲得できるか。私は考え抜いた。そして、自分が子どもであることを有効利用する手段を講じた。

 私は自分の父親と同世代のオジサンがたくさん働いている工事現場を次々と訪ねた。当時の日本は高度経済成長期だ。街のあちこちで道路工事や建設工事が行われていた。そこを訪ね、責任者にデイリースポーツの定期購読を頼むのだ。

「オジサン、デイリースポーツ、とってくれませんか」
「坊主、なんでそんな営業をするんだ?」
「拡販で一番になると、万年筆がもらえるんです!」

 正直にこうお願いをすると、ほとんどの工事現場では、みんなを集めてくれて、大口契約が成立した。オジサンたちは、おそらく遠く離れた家に私と同じ年頃の子どもを残して働きに来ていたのだろう。みんな、親身になって応援してくれた。

 この作戦は見事に的中。私は近畿全体でナンバーワンの成績になった。

 ただし、計算違いも生じた。京都で一番は、狙っていた成績よりもよすぎたのだ。ペリカンの万年筆を飛び越え、もっと高額な天橋立観光と温
泉旅行に招待されてしまった。しかたがない。努力とは徹底的にやることだ。ほどほどの努力などは努力ではない。

 小学6年生の私に、温泉はさほど嬉しいものではなかった。旅館の宴会場では美しい芸者さんがサービスしてくれた。十分に大人になった今ならば、そりゃあワクワクするが、当時は特に感動はない。酒も飲めないので、料理を食べ続けた。

 表彰式も行われ、舞台に呼ばれて近畿の専売店の人の前で称えられた。

「小学6年生に負けるとは、君たち大人は恥ずかしくないのか」というような叱咤のコメントがされていたことを憶えている。

 当時は元日とこどもの日だけが新聞の休刊日。私自身は、温泉旅行よりも、2年近く毎朝5時前に起きてやっていた新聞配達が、旅行中は堂々と休めたことが嬉しかった。もちろん欲しかった万年筆も、アルバイト先の専売店からちゃっかり手に入れた。

  

努力だけでなく創意工夫
新聞配達と牛乳配達

 新聞配達時代に欲しかったのは、ペリカンの万年筆だけではない。ほかにどうしても欲しかったのが、天体望遠鏡と腕時計だった。

 しかし、そんなものは拡販の賞品にはならなかった。だから、アルバイト代を貯めて自分で買った。どうしても天体望遠鏡で星座を見たかった。あの頃は多くの家がそうだったように、私の家にもお風呂はなく、夏は庭にたらいを置き、そこに水を張って行水した。母は私に水をかけながら、暗くなり始めた空に輝く星たちの名前を教えてくれ、その星たちにまつわる物語を話してくれた。それらの星を見たかったのだ。

 高価な反射式の天体望遠鏡を手に入れたときはものすごく嬉しかったけれど、このときも誤算はあった。天体望遠鏡は星を観測するためのものである。星は、当然夜空に広がり、輝く。ところが、私は、夜は尋常でなく眠い。当然だ。新聞配達のために毎朝5時前には起床していたから、星が輝き始める時間には、すでに寝ていたのである。

 結局、天体望遠鏡をのぞいたのは、2、3回だけだったと思う。そこで、近所に住むスケベエなオジサンに目をつけ、天体望遠鏡を売った。私が星を見るために購入したその望遠鏡で、オジサンはよその家の浴室や寝室をのぞいていた。とんでもない大人だ。

 一方、腕時計のほうは、憧れだけではなく、必要に迫られてのことでもあった。夕刊の配達とチラシの折り込みは、毎日専売店へ出かけて行っていたが、放課後に学校の校庭で遊んでいると、つい時間が経つのを忘れ、遅刻しがちだった。クラスメートと楽しく遊んでいるさなか、毎日午後3時に自分だけ抜けて新聞配達に出かけるのは、子どもにはつらいものだ。

 ある日のこと、専売店に1時間も遅刻をしてしまった。その日は、さすがにしびれを切らした親方が、代わりに夕刊を配達した。配達を終えて専売店に戻ってきた親方は、私の服装を見て怒鳴りつけた。

「お前、何時まで遊び呆けてたんや!」ズボンの汚れを見て、私がずっと遊んでいたことを察したのだ。

「校舎の時計は大きくて、針が進むのが遅いんです」まったく理屈になっていない言い訳をした私を親方は思い切りぶん殴った。アルバイト代も削られた。

 その出来事をきっかけに、生まれて初めて腕時計を買ったのだ。もちろん月賊で。メーカーはシチズン。私は子どもの頃からブランド志向だった
のである。

 当時はまだ小学生だったので、月賦なんて組めるはずがない。近所に住むお兄さんに頼み込み、肩代わりしてもらって購入した。高価な腕時計をしての登校は学校内で問題視された。しかし、うちの貧しさと働かなければいけない状況は学校が知っていたので、結局は許可された。

 中学生になってからは、新聞配達はやめて牛乳配達に“転職”した。中学1年から高校3年まで、6年間やった。

 転職の理由は二つ。一つは牛乳が毎日ただで飲めると思ったから。それともう一つ、夕方に新開配達をしている姿を、友人たちはもちろん、クラスの好きな女の子に見られるのがたまらなく恥ずかしかったからだ。それに、新聞配達と比較すると、時間の拘束が緩かった。しかし、牛乳は重い。そして、冷たい。底冷えする京都の冬に、自転車で配達するのは、本当にきつかった。

 高1でバイクの免許を取得した私は早速、店主に提案した。

「遠くの配達が増えて大変ですね。僕にバイクを貸してくれたら配達しますよ」
「そうやな。助かるわ」

 こうしてバイクは私のものになった。牛乳を運ぶだけでなく、私は高校もバイクで通った。もちろんガソリン代は牛乳屋持ちだ。

 こうしたさまざまなアルバイトは、私に尊いことを教えてくれた。

 努力とは、必ずしもただ猪突猛進スタイルで行うものではない。その過程で何かしら自分なりの創意工夫を凝らすことによって、成果はひときわ大きくなる。それを、頭の中の知識としてだけではなく、体験として身体で覚え込んだことが、その後の人生で、そしてビジネスで、大いに役立っている。

…次号へ続く

 


『アジアで負けない三流主義』
ゲーテビジネス新書 幻冬舎

 


著者:森 幹雄(もり みきお)
クラウンライン・グループ社主・CEO
海外日系新聞放送協会副会長
アジア経営者連合会理事
シンガポール日本人会理事

1953年京都府生まれ。工業高校卒業後、日立製作所入社。退社後、アメリカを経て、単身シンガポールへ渡る。外資系引っ越し会社に3年間勤務後、日本人による日本人のための海外引っ越し専門会社クラウンラインを設立。今では11か国21都市に進出する。本業以外にも出版・情報サービス、イベント企画などを展開中。
アジアビジネス実践塾 www.sg-biz.com
✉:mori@comm.com.sg まで、お気軽にご連絡を!